「一人で死ぬべき」論についての個人的整理

先の無差別殺人事件により尊い命が犠牲になってから早数日、表題のセンセーショナルな言葉がリアル・ネットを問わず飛び交っている。 既にこの世にはいない殺人者に向けた言葉で「論争」が起きるのは、まさに不毛といえそうだ。しかしながら、個人的にもやっと思う部分もあるので少し整理したい。

誰に向けた言葉なのか

この言葉の主な名宛人は、当然ながら上述の殺人者である。しかしながら、既に他者の生命に危害を加えた上でこの世を去った人間に向けて言う言葉だとすると、ただの結果論なので何の意味がない。そのため、テレビやネットといった公共の場で意見表明として発する場合には、それ以上の意味を含んでいると言ってよい。 様々な識者の「一人で死ぬべき」論を見て、二つの前提条件に分類した。

  1. 他者に危害を加える必然性があれば一人で死ぬべき(消極的自殺志向)
  2. 他者に危害を加える蓋然性が高ければ一人で死ぬべき (積極的自殺志向)

前者は他者に危害を加えることが如何なる手段を以っても避けられない情勢にある場合には、早急に大型トラックなり高所なり身を投げだすべきだという論理である。確かにこの場合だと一人で死ぬことで危害の脅威を終局的に終わらすことができるので正しいともいえる。だが、果たしてそこまで緊迫した状況の人に「一人で死ぬべき」という願いが届くだろうか。まさか、神のために息子を手にかける直前に天使が降りる様な奇跡でも起きるというつもりなのだろうか。

後者は今回の殺人者と同じ動機を抱いている人(いわゆる「犯罪予備軍」)あるいは自殺志願者に対して、もし自殺するなら他人を巻き込まないとする忠告としての論理である。前者はほとんど結果論であり実現可能性が少ないが、こちらは対象範囲が広いのである程度のメッセージ性がありそうだ。また、社会的に問題を抱えた人の自殺を容認していることも大きな特徴である。

実際の使われ方

殆どの人は事件に対する結果論として「一人で死ぬべき」と発していると思われる。しかしながら、当初は「死にたければ一人で死ぬべき」と自殺志願者全員に向けた発言をする一方で、実際に自殺推奨と非難されたら「他人を殺すくらいなら一人で死ぬべき」という意味だとすり替える人もいるため注視する必要がある。

そもそも

自殺に他人を巻き込むくらいなら、もっと社会に頼って周りに迷惑をかけろ

ってなんで言えないんですかね。言うだけならタダなのにね。

追記

ここまで書いた後にあるブログ記事を見つけてしまったのでおいておきます(表題の方を非難する意図はないです)。 というか、概ね自分が言いたかったことが書いてあったので、わざわざこの記事でまとめる必要もなかった……

赤木智弘. 「○○○さんの願い 今日も叶いましたよ」 , 2019-06-02.

追記2

この記事はただの論点整理であり、特定の立場に立つ人を殊更に批判もしくは擁護することを目的とした記事ではありません。ただ一つ、今回のような殺人者に対しては生死とは無関係に強い非難に晒されるべきであり、たとえ前提条件があったとしても「自殺して当然」あるいは「自殺するべき」と捉えかねないメッセージを公の場で発信すべきではありません

参考: 厚生労働省. WHO 自殺予防 メディア関係者のための手引き(2008年改訂版日本語版), 2019-06-05閲覧.